ゲーム療育を専門として、様々な発達障がいに関わる施設でアドバイザーとしてお仕事をされている松本さんが最近『「好き」を軸とした療育』について考えがあるということでお話を聞いてきました。
こんにちは。
ではまずさっそくなのですが、普段どんなことをされているか簡単にご紹介頂けますか?
障害のあるお子さんが通う放課後等デイサービスや、同じく障害がある成人の方の通う就労移行支援に定期的に訪問しています。
だいたい1回2時間くらい色々なアナログゲームを遊んでもらい、その方のコミュニケーション上の強みとか課題というものを明らかにし、強みを伝えて自信にしてもらったり、課題の部分はご本人と一緒に改善を考えたりする活動をしています。
課題点に関しては、そのゲームのなかで直接指導することもありますが、色々なゲームをしていく中でご本人が自ら成長され、改善していくことも多いです。
またこうした現場で得たノウハウを、講演会や研修会でお話させてもらったり、あとはDVDや書籍(今年中に出版予定)にまとめたりしています。
ありがとうございます。
では、そんな中、様々な面で発達障がいというものを見ている松本さんから見て、現在どんな点に課題を感じているかお聞きしたいです。
療育にグランドビジョンが欠けている
まず一番大きな課題としては、療育自体にグランドビジョンが欠けているという点です。
特定の問題に対する改善とか、特定の能力の発達を促すノウハウはあっても、全体として子どもが大人になるまでにどうなっていてほしくて、そこに至るようにどう療育なり訓練なりを展開していくのか、その大きなストーリーがないということですね。
療育を通じてある時期ある部分で成長や改善が見られたとしても、当然のことながらお子さんの年齢が上がり進学などで環境が変わってくればその段階なりの新たな課題がまたでてくる。
そのとき、大きなストーリーが描けていないと「今回療育して改善したとしても、後々また別の問題が出てくるのではないか。療育におわりはあるのか。」という不安が、特に親御さんの中に出てくることになります。療育者・支援者が、その不安に応えられてないという危機感を持っています。
このことを強く感じたきっかけは、数年前にNHKが放送した自閉症児早期療育についての特集がきっかけでした。
その番組では、自閉症のあるお子さんが専門家の療育を受け、親御さんもその専門家の指導をうけつつご自宅でお子さん療育する。
そうやっていくことでお子さんの言葉が増えたり、身の回りのことができるようになっていくという内容だったんです。
僕は同じ療育者として、良いことやってるなと思ってその番組を見ていたのですが、ツイッターを見ると、障害児を育てる親御さんから、番組に対する批判や怒りのツイートがたくさん出ていて驚いた。
番組の内容を、早期療育をやらない親は怠慢だというメッセージとして受け止めた親御さんが多かったんです。
あとは番組中で「療育をがんばって子どもを普通級に入れたい」と言っている親御さんの意見が出て、そういう話を放送すること自体が、特別支援学校や支援級に通う子の存在を否定してるじゃないか、という批判も多かった。
もちろん「療育を受けて成長できることがわかり希望が持てた」といったような、肯定的な意見もあったわけですけれども、僕が見た限りにおいては、否定的な意見のほうがはるかに多かった。
障害児を育てる親御さんのそうした批判や怒りを目の当たりにして、同じ療育を生業とするものとして非常に大きなショックを受けました。
療育なんて必要とされていないんじゃないかというショックです。
致命的な課題を突きつけられたと思いました。
番組で紹介されたやり方が僕から見てダメだったら気にしないですよ。
でも、至極真っ当なことをやっていた。
その真っ当なことが、親御さんにとっては、追い詰めるようなものであったということ。
もっと言えば、子どもに療育を受けさせる、あるいは自分が子どもに療育をすることに、親御さんがプレッシャーや抵抗を感じているということですね。
なるほど。
あとから冷静に考えてみると、番組から親御さんたちが感じた、早くから療育すべきというプレッシャーや、普通級がいいんだという価値観の押し付けというのは、決して番組の主旨じゃなかったと思うんです。
たまたまそう感じさせる場面やコメントがあって、そこだけが非常に拡大して受け止められてしまったように思う。
じゃあなんでそんな受け止められ方をされてしまったのかというと、そもそもなんで療育をやるんですか?という理由がきちんと示されてなかったことが大きいと思う。
療育を繰り返した結果として、最終的に子どもがどうなることが良いんですか?という目標の提示がなかった。
グランドビジョンの欠落ですね。
将来その子が幸せに暮らしていくために、療育で言葉を増えたとか身の回りのことができるようになったということが、どこにどれだけ大きく関わってくるのか。
またそれ以外にどれだけのことをやる必要があるのか。
そこの説明がなかったと思うんですね。だから多くの親御さんにとっては療育が永遠に終わりのない無謀なマラソンのように思われてしまったのではないかと思うんです。
そうならないようグランドビジョンをどう描いていくんだという問題が第一にあります。
わかりやすいゴールは描けないにしても、目指すべき頂上の姿はもう少し明瞭になる必要がある。
対等な関係を前提とした合意形成の技術
教育全般に関しても、やっぱり課題は、大きいものがあると思っています。
ひとつは、人間関係というものが上下関係から対等な関係にシフトしてきているということです。
これはもう、全世界のあらゆる分野における、それこそ子育てもそうですし、国家間の勢力もそうですし、政治もそうです、経済もそうです、全部そうです。
従来は、権力に基づいた上下関係が基調だったわけです。
例えば、お金のある者がお金のない者を支配する。
年長者が年少者を支配する。男が女を支配する。
そして、大人が子どもを支配するという、権力に基づいた上下関係というものが、やっぱり人間関係の基調をなしていたと思うんですね。
その価値観が崩れて、全てが対等な関係に、フラットな関係になってきている。
これは 基本的にポジティブなことだと捉えてます。
そうして、全ての人間関係が対等になっていく時代に生きる子どもたちも、上下関係でただ命令に従うだけとか、あるいは一方的に命令するだけみたいな関係じゃなくて、お互いがお互いの事情をよく話し合っていきながら、合意形成をしていく。
その合意形成の技術をどう身につけるかということが非常に大きな教育上の課題だろうと思うんです。
しかし、現実の教育の場というのは、特に公教育がそうですが、旧態依然として、先生が命令し、子どもはそれに従うという形になっており、ところが、実社会のほうは、どんどんそうじゃなくなっていますから、そこに大きな亀裂が生まれるわけですね。
学校、公教育が変化しきれていないということですね。
全然変化できていない。
実際には、最大40人に対して、1人の先生がつかなきゃいけないわけで。
それは、40人の個々のニーズに1人で対応できないんで、結果的に権威主義的に、一方的に命令して、おまえたち俺の言うとおりにやれっていう。
そういう形にならざるを得ないわけですね。
そうですね。
先生だって自分が子どもに無理言っていることがわかるから当然疲弊する。
だってそれが許されないわけですから、一般常識的には。
はい。
同時に子どものほうも不満が高まり、親にも不満が募るし、誰も得しないっていう状態がある。
制度の疲弊ですね。
知識から気質へ、学ぶべきものの変化
もうひとつの課題は、何を教えるかということ。
今までは知識だったんですよ。
だけど、知識なんていうものは、もうインターネットでいくらでも手に入るし、それこそよく引き合いに出されますけど、カーンアカデミーみたいなところで、優秀な先生が教えてくれるし、なんなら、大人になってからネット調べればいいわけであって、それよりも、考え方とか、あるいは気質的なものが重視されてきている。
つまりテストの点数や知能検査では測れない、困難を耐え抜く力であるとか、他の人とうまくやっていく力、、、力というよりは、姿勢とか気質、あるいはマインドってことですよね。
そういう要素を重視する方向に変わってきているのが今、ということですね。
知識とか技術、IQよりも、そういうマインド的な部分のほうが、子どもの将来の幸せに大きな影響を与えるってことが欧米の研究で明らかになってきた。
教育の内容も、その方向にシフトしていくんだと思います。
なるほど。分かりました。
今、療育全般の課題のところと教育の課題のところをお話しいただいたんですけれども、その中で現在もしくは未来とかで、松本さんがこういう活動をしていきたいということはありますか?
認知能力と共同体感覚
そうですね。
大変壮大な話をしてしまいましたが、それと今僕のやってるアナログゲーム療育がどうつながっているのか、お話します。
大きく分けて2つあって、1つは認知能力の発達を促すってことなんですね。
はい。
松本さんが普段使っていらっしゃるゲームをお見せ頂いた
認知能力っていうのは、周りで何が起きているかということを正しく理解して、それに対して自分がどういうふうに動けばいいのかってことを判断できるという知的能力ですね。もう一つは、これはちょっと専門用語になるんですけれども、アドラー心理学の言う共同体感覚というものの醸成ということを考えています。共同体感覚は、、
- 他人は自分を助けてくれるという他者信頼
- 自分は他者に貢献できるという自己信頼
- 自分はここにいてもいいという所属感
この3つで成立する。
はい。
この3つがある時に、人間は幸せであると心理学者のアドラーは言う。
この認知能力と共同体感覚というものが、最初に申し上げた、対等な関係に基づく合意形成が基調となる時代を生きていく必要なものだろうというふうに思っているんですね。
それをゲームを使って、身につけていくということを今やっていますし、それは最初に申し上げた療育やその教育の課題の解決に対する1つのアプローチになり得ると思っているんですね。
スキルよりも社会に向き合っていく姿勢
分かりました。
それでは改めて、松本さんが最近おっしゃっていた「『好き』を基軸とした新しい療育」っていうところについてお聞きしたいです。
はい。
アナログゲーム療育の話なんですが、最初は認知能力を伸ばすという、つまり能力面の発達を目的に開発したんです。
具体的には相手の立場に立って考えたり、先の見通しを作っていく、というようなことをゲームで練習してもらおうというコンセプトですね。
ところが、実際に発達障害のあるお子さんたちにやっていく過程で直面したのは、過去にルールを間違えていじめられた経験があるからそもそもゲームに参加しないとか、わざと他の子を馬鹿にするようなことを言ったりルールを破ったりして、俺はこういうワルなんだぞとなめんなよとアピールするような子が多いことなんです。
ゲームを使って楽しく認知能力を伸ばす練習しましょうというつもりだったけれど、実際は能力以外の問題でみんなで楽しくゲームをすることが難しい子たちが相当数いたんですね。
なるほど。
そういう子がゲームを楽しめるように色々試行錯誤しました。
参加に不安を抱える子にはビジュアル的にインパクトのあるゲームで興味を引いたり、悪さして目立とうする子には、ルールの枠組みの中で目立てる機会を作ってあげたりするということですね。
そうすることで子どもたちがゲームに落ち着いて参加して、楽しんで過ごせるようになってきた。
そこで驚いたのは、安心してゲームを楽しめるようになってくると、周りの状況がよく見えて、相手の立場に立って考えたりできるようになってくる。
のみならず、お互い協力しあうようなゲームでは、先を見通してアドバイスをしたりとか、リーダーシップを取ったりができるようになってくるんですよね。
だから、さっきの話で言うと、認知能力と共同体感覚っていうのがあったんですけど、実は共同体感覚の醸成という心理面の課題にアプローチするほうが先で、それができれば、あとは認知能力っていうものは自然と伸びていくらしいという気付きがあった。
それまで療育とは、能力やスキルを身につけてさせていくものだと考えていたんですが、こうした経験を経て、もうちょっと、社会と向き合っていく姿勢というか、心持ちを作っていく、そういう方向性を療育の中で追求していいんじゃないかと思うようになりました。
特にいじめとか叱責をたくさん受けてきた子たちには、そうした要素こそ必要とされているんじゃないだろうかと。
療育の中で何を重視するかということについて、こうした能力面から心理面へのシフトがあったんですよ。
なるほど。
岩野響さんの生き方から学ぶ「文化的包摂(ほうせつ)」
もう一つは、僕は直接お会いしたことないんですけど、一人「好き」というものを仕事にしたっていうロールモデルになり得る方がいて、岩野響さんって方がいるんですね。
あ、コーヒー焙煎の方ですね。
そうそう、コーヒーをやってる人なんですよ。
それで、今15歳、もう16歳かもしれないですけど、ASDがあって、不登校のまま中学を卒業されたんだけども、じゃあこれから将来何やっていくかっていう時に、その方は、学校行かない時期に、コーヒーの焙煎を一日何時間もずーっとやっていたと。
じゃあそれを仕事にしてみようかということで、青山にあった大坊珈琲店という、村上春樹とか糸井重里とかが通ってた名店の店主に指導を受けて、本格的にコーヒーを焙煎して、それを売るっていうことをしたら、マスコミの取材の影響もあって大人気になっちゃって。
ところが彼はっていうと、相変わらず焙煎に打ち込んでる。一日10時間ずーっと焙煎してるらしい。疲れないそうなんです。すごいですね。
僕も本読みましたけど、すごいですよね。
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岩野響さんの本はこちら。
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発達障害のある人が、「好き」を生かして頑張るみたいなストーリーはもちろん岩野さんの前にもたくさんありましたが、岩野さんの話については、それにも増して僕は興味を感じたんです。
というのも、僕はかなりのコーヒーマニアでして、名店と言われているお店は大体訪れているからなんです。
当然、先に話のでた大坊珈琲店にも通って、岩野さんの師匠筋にあたる店主の大坊さんとお話させていただいたり、岩野さんと同じように大坊さんの影響を受けている何人ものコーヒー屋さんのコーヒーも飲んでいて、要は大坊さんから拡がった珈琲の伝統の系譜のようなものを感じているんですよ。
なるほど。
で、彼のコーヒーを飲んだんですけど、おいしい。
マニアとして言わせていただくと、大坊さんの影響を受けつつ、ちゃんと自分の個性を出しておられる。そう感じるコーヒーなんです。
これがちょっといまいちなコーヒーだなっていう話なんだったら、話題先行なのかなっていう感じもしちゃったけど、でも一流の仕事してるんですよ。
そして15歳だけど普通にお店やってるから、もうこのまま続けていけちゃうわけですよ。
もう仕事として完成されちゃった。
1年前ぐらいまで不登校だったのが。
これ、何なんですか?っていう。
冒頭の将来に向けたグランドビジョンどう描くんだという話と絡めて、分析しなきゃいけないじゃないですか。
なんでそういう人が岩野さん以外にたくさん出てこないんですか?って。
で、僕なりに考える中で一つのキーワードが浮かんできたんですけど、それが文化的包摂(ぶんかてきほうせつ)ということなんですね。
文化的包摂。
包摂って言葉は、インクルージョンって言われてるんですけど、要は障害のある人もない人も一緒に暮らしていきましょうという話なんですが、我が国では障害のある人に何らかの支援をしてあげることによって、みんなと一緒にやっていけるよという話だと解釈される。
しかしそれは僕は表面的なことだと思っていて。
例えば、
「彼はLDで書字困難があるから、タブレットを用意して文字入力できるようにする」
という支援ももちろんインクルージョンなんだけど、そういう外形的なことだけじゃなくて、もっと文化的な部分というのがあるんじゃないかと。
そこで岩野さんの話に戻るんですが、彼がコーヒー焙煎人として仕事を成立させている要素はもちろん本人の適性や意欲、親御さんのサポートもあるけど、もう一つは彼の仕事が、日本で独自に進化してきたコーヒー焙煎の文化にしっかりと根ざしていることにあると思うんです。
つまりコーヒーという飲み物を文化的に高い水準に引き上げた大坊さんという人がいて、その人のコーヒーに対する向き合い方を彼は受け継いでるんですよ。
そういう文化的系譜を受け継いだ結果、高い水準のコーヒーを作り出せるんですよ。
それを僕みたいなマニアが飲んで、うまいなと思う。
あるいは他の人もうまいなと思うわけですよ。
先人たちが作り上げてきたコーヒーの文化とそれを支える技術的な深まりというのがあって、彼はそれらを受け継いで、自らコーヒーを作り出すことで、その文化がさらに多くの人に共有されていく。その営みが仕事となり生活の糧をももたらすという。
それが文化的包摂。
はい。
単に突出した能力や技術を持ってるということと、それがちゃんと仕事になるということの違いは、その能力なり技術なりが文化的に包摂されているかどうかだと思うんです。
彼の仕事が成立しているのは、単に本人に適性がありました、周囲の支援がありましたということだけじゃなくて、彼が日本のコーヒー文化という深く広がりのあるものにコネクトできたからだと思うんです。
なるほど。ああ、よく理解できました。
「『好き』を基軸とした療育」
これまで述べてきた色々な要素が、今日のテーマである「『好き』を基軸とした療育」につながるアイデアとして、僕の中でまとまってきたのがここ最近のことです。
今3つ言いましたよね。
- 教育全体の世界的な動向として、能力よりも気質の問題に、今シフトしているということ。
- 障害のある子の中に、気質の問題が大きい子が多く存在し、共同体感覚を身に着けさせてあげる必要があるということ。
- 岩野さんに代表されるように、その自分の得意な好きなことというのが、文化的に包摂されることによって、仕事になっているんだということ。
全部別々のルーツなんですけど、そういうものが3つぐらいここ半年ぐらいどんどんどーんと出てきて、なんかその先に、今日お話に出てきている「『好き』を基軸とした療育」というのが、どうも考えられそうだという。
なんかありそうだなと。
ええ。そういう感じで今考えているんですよね。
なるほど。
今、ちょうど整理していただいた形なんですけど、具体的にこういうアプローチが必要なんじゃないかってありますか?
僕の中ではまだまだ具体的にはなってきていないんです。
だからこそ、中里さんの始めた「好き」を見つける/伸ばすということを基軸にしたBranchのサービスに興味を持ったわけなんですよ。
そこで、Branchの活動にひきつけて言うと、やっぱりこの教室の中で好きなものを見つけていく過程に他の子も巻き込んでいくのが良いのではないかと思いますね。
というのは、子ども一人だけの環境で見いだされた「好き」っていうものが本当の「好き」なんだろうか?っていうところがあって。
色々な子どもたちと遊んだりとか、集団でアクティビティをしていく中で見えてくる得手不得手。
俺、あれは苦手で○○君にかなわないけど、あっちだったらいけるんじゃないかなみたいな形で見えてくる「好き」もあると思うんです。
それって一人で自由に、さあ、この中で君の好きなもので遊んでいいですよ、というだけでは見いだせないものかもしれないと思っていて。
はい。なるほど。
入り口はまずは一人で良いし、特に対人関係に不安のある子は一人で安心できる環境が確保される必要があるけど、結局それは特殊な環境なんですね。
かたや「好き」が仕事になって何らかの形で社会で生きていく、その過程で先に述べた文化的包摂がなされる必要があるのだとしたら、一人でいる子がやがて実社会に出ていく、その間のところに、子ども同士でなんかやるっていうプロセスが、たぶん入ってきそうだなと。
具体的に、こういう最終のサービスの形が今見えてるわけじゃないんですけど、今のBranchをもう一歩発展させるとしたらこの大人と子どもの一対一の時間を経て、子ども同士の交流の中で、それぞれの「好き」が見えてくるような形が望ましいのかなと。
なるほど。
たとえば、人付き合いは苦手だけどチョコレートを作るのが得意な女の子がいたとして、Branchの子どもたちにチョコレートを振る舞ったら、すごい喜ばれたと。
で、その子たちも一緒に巻き込んでみんなでBranchの前にあるカフェでチョコレートを売りました、大評判でした、みたいな形が一つのアクティビティとして出来たら、それがその子が将来ショコラティエになるきっかけになるかもしれないし、ならないにしたって、何か別の「好き」を生かした仕事に繋がっていくかもしれない。
一人だったのが子ども同士の関係へ、子どもだけの関係だったのが大人の社会を巻き込む動きへ、という流れを療育的エッセンスを加味して展開できたら面白いのではないかなと。
もう一つ、僕がこれからの社会を考えるうえで非常に危惧してることがあるんですね。
それは、さっきも言ったように全ての関係が対等に近づいて行く過程で、みんなが同じ条件で競争させられる社会に向かおうとしているということ。
僕は療育の仕事をするまえ、発達障害者就労支援の仕事をしていたことがあるんです。
その経験を振り返ると、企業の障害理解というのは間違いなく進んできているのだけど、同時にものすごい勢いで画一的な能力主義が進んでいる。
極端にいえば、
「障害があるんですね。わかりました配慮します。それはそれとしてこれだけの仕事をしてもらいます。できなければ給料下げます、あるいは契約きります」
という大変ドライな姿勢です。
仕事をする上で企業が何を求めているのかというと、相手の立場に立って考えられるとか、先の見通しを持って柔軟に行動できるといったような、先に述べた認知能力に関係することですね。
そういう能力が高い人は障害問わず非常に重宝される一方、そういうことが出来ない人は、賃金の低いあるいは身分の不安定な労働に押し込められざるを得なくなっているという現状がある。
はい。
松本さんが普段使っているゲーム
だからこそ、僕がやってるアナログゲーム療育は、子どものうちから認知能力を高めていきましょうというコンセプトで実践しているわけです。
そういう意味では時代の要請にマッチした療育を展開しているつもりですが、同時にそれは高い認知能力を求める社会の現状にただ追従しているにすぎないという見方もできる。
なんで自分の方法に対してそんな穿った見方をするのかというと、相手の立場を想像するとか先の見通しを立てるといった認知能力の部分に困難を抱えるのが、まさに発達障害のある人達だからです。
仮に僕が、
「発達障害のある人は相手の立場を想像したり先の見通しをたてたりするのが苦手で、そこをゲームで療育してあげないと将来社会でやっていけない」
などと言ったら、冒頭でお話したテレビの特集と同じ問題がおきる。
つまり良かれとおもってやっている療育が、いたずらに親御さんの不安を煽ることになりかねない。
だから、お子さんそれぞれのレベルにあわせて認知能力はしっかり伸ばしてあげたいしそのための方法は研究していくけれども、それだけじゃ片手落ちだという気がするんです。
能力主義の外に飛び出していかないといけない。
そこで「『好き』を基軸とした療育」っていうことを考えていきたいと思うんですね。
ここで、心理学者ピアジェの話が出てくるんですけど。
はい。
ピアジェが提唱した同化と調整という概念に注目してます。
同化というのは、僕の意訳ですけど、自分の思い通りに周りの環境を変えること。
調整っていうのは、周りに合わせて自分を変えるっていうこと。
人間の発達は、この同化と調整が交互に切り替わりながら進んでいくのだ、というのがピアジェの考え方です。
同化、つまり自分が周りを変えるという状態が優位な時は、自分自身は安定的なので均衡状態にあるといいます。
逆に、調整、つまり常に周りにあわせて自分を変えなきゃいけない状態が優位な時は自分は不安定で、不均衡状態にあると言います。
で、どうしても発達障害のある人は、他の多くの人と物事の捉え方や考え方が違うから、周りに自分を合わせなきゃいけない場面が多くなる。つまり調整優位の不均衡状態に陥りやすい。
いつも自分を周りに合わせていかないといけない、言いかえれば今の自分を常に変えていかなきゃいけない、そういう状態は不安であり、それがずっと続けば社会的関係を絶ってしまい、ひいてはみずから発達の可能性を閉ざしてしまうことに繋がりかねません。
そこで、調整優位の不均衡状態を、同化優位の均衡状態に切り替えていくことがご本人の心理の安定ひいては発達を保障することにつながると考えられる。
その人の生活の中に、自分が思い通りに物事を進めていける時間なり場というものを用意していく、つまり同化優位の均衡状態を作っていくということが大切ではないかと考えるのです。
それと関連して、同化優位で進められること、つまり自分の力で自分の思い通りに進めていきやすい、言いかえればそれをしていることで自分が自分らしくいられる課題なりアクティビティなりを「好きな事」と呼んで一応差し支えないのではないか。
そういう意味での「好きを基軸とした療育」というのは、最初申し上げた能力主義とはまた別の軸における療育の可能性を提示していると思うんですね。
はい。
で、すごい難しい話をしちゃったんですけど、要は「好き」ということを軸にすることによって、その人の今あるいは将来の職業生活というものに対して、1つの落としどころを作りたいということです。
どこまでも能力高くしていかないと生き残れない、あくまでもトップを目指していかないといけない、ちょっとでも足を止めてしまえばあっという間に落後してしまうという生き方では苦しいと思うんです。
そうですよね。
これは療育に限った話ではないと思います。
何でかというと、人間というのは老化していきますから、どう考えたって、先に行けば行くほど、走るスピードは遅くなるんです。
今までは、その社会の変化のスピードが遅かったので、年齢の高い人が今までの蓄積で頑張ってこれたり地位の高さを生かして優位に立てたわけなんですけれども、
今言ったように、そういう上下関係というのは全部フラットになってきていますし、技術の進歩というのも早くなってきてるから、30代の人も60代の人も同じスタート地点で競争しなきゃいかんということになってくると、絶対60代の人のほうがきついってことになってくるんです。
そういう競争中心の生き方をしていっちゃうと、先に行けば行くほどきついってことになってきちゃう。
加えて、そこに障害が絡んできたりすると、人によっては、昔流行った言い方で最初から負け犬じゃんみたいな考え方をする人も出てきてしまうと思う。
そういうストーリーを僕は選びたくないし、他の人にも選んでほしくないと思っていて。
そういう競争から少し距離をおいたところで、たとえば規模はちっちゃいけど、自分は好きなことをして安定して幸せに暮らせてるよっていうのはあると思うんです。
確かに。
なんかそれ、あれですね。一番最初におっしゃったグランドビジョンの話につながりますね。
そうです、そうです。
こういうところが、大人になった時のグランドビジョンとして、「好き」を基軸とした落としどころなんですね。
そうそうそう。
だから、そのグランドビジョンが、例えば、共同体感覚を身につけて認知能力を伸ばしていくんですよっていうふうになっちゃうと、やっぱりそこが、じゃあ伸ばせない、伸びない子は苦しいままでいなきゃいけないんですかって話にやっぱりなっちゃうじゃないですか。
はい。
さきに述べたようにそこが難しいっていうのが発達障害なんですよ。
それだけだと苦しいストーリーになっちゃうんで、そうじゃなくて、まあ、今言ったベースの必要な能力を伸ばしていくっていうのは、それぞれのレベルで伸ばせるだけ伸ばしていったほうがいいと思うんだけど、そうやって伸ばしていった結果として、どのへんで人生固めますかというかという話になった時に「好き」っていうものがあるっていうことの力、もっと言うと、その好きなものが文化的に包摂された状態で存在しているというということが、大きな意味を持ってくるんじゃないかなと思うんです。
なるほど。分かりました。ありがとうございました!
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松本さんの課題とアプローチは非常に私たちBranchに影響を与えていて、今一緒にプログラムを創っています。
そんな松本さんの思いがつまったインタビューになりました。
松本さん、ありがとうございました!!
松本さんのゲーム療育プログラムはこちら。
Branchすべてのサービス説明についてはこちら。